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皆さまの信用を得られるかどうかは分かりませんが、まずは自己紹介をしておきましょう。これを書いている私、ヒデ・フランシスは独立系のキリスト教徒です。
独立系というのは、プロテスタントでもカトリックでもなく、新しいパラダイム、ポストモダーン型パラダイムでのキリスト教の在り方を探っている、という意味です。 「ポストモダーン型パラダイムでのキリスト教の在り方」についてここでは詳細に述べません。このサイトの本来の目的を外れるからです。興味のある方は、たとえば南アフリカ大学で宣教学部長を務めておられた David J. Bosch の "Transforming MIssion" (Orbis Books) などをご覧下さい。
こういうと、「おまえ達こそ、新興宗教かカルトかなんかじゃないのか?」という質問がどこかから発生するかも。それで、私を含め、このサイト作成に携わっている我々チーム自身の自己紹介をまずしておきましょう。
まず、地球上の”まともな”キリスト教は、東方正教/ローマカトリック/プロテスタントの3系統に大別されることを御存知と思います。それぞれ違いがあります。西欧+アメリカ型(カトリックとプロテスタント)と東欧+中東型(東方正教)といった地理的な違いも1つです。東方正教のスピリチャリティが古代キリスト教のパラダイムに則っているのに対し、カトリックは西欧中世の色彩が強い(第2バチカン公会議以後かなり変化はありますが、聖トマス・アクイナスの影響の強さはいまだに明白です)ですし、プロテスタントはやはり西欧近代のものです。近代産業社会の倫理とピューリタニズムの関連なども、よく言われることです。(よく知られている学問的な指摘として、Max Weber の「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」などがあります。岩波書店から翻訳が出ていると思います。)
しかし、これら3系統はまったく別々バラバラのものなのでしょうか?無論、そうではありません。まったく別々なら、「キリスト教」という統一名称自体が成立していないはずです。つまり、信仰の核心部分が共通しているのです。この核心部分とは、「聖書」ではありません。聖書を使うのなら、「ものみの搭」でも使っています。また、御存知のとおり、カトリックとプロテスタントでは「聖書」のカノン(正典)が違います。また、東方正教ではヘブライ聖書ではなくLXX(セプチャギンタ)を使います。

では、なにがこの3系統の信仰の核心として共通なのでしょうか?それは、「ニケヤ・コンスタンティノポリス」信条です。いわゆるエキュメニカル運動においても、和協の基盤としてこの信条がよく利用されています。
こまったことに、「聖書主義プロテスタントを標榜するカルト」(長い名称なので、以下「隠れ聖書カルト」と呼びます)の人達の場合、自分の集団の指導者(名称は「牧師」であったりします)の教説だけを聞かされており、「ニケヤ・コンスタンティノポリス」信条のあることすら知らないことがよくあります。
確かに、カルトは情報操作集団です。この信条が成立してから1600年以上が経ち、キリスト教はどの系統もこの信条を今に至るまで守ってきているのですが、それを教えないで「我々こそ、聖書的なキリスト教だ」と主張している集団があるのです。
私ヒデ・フランシスを含め、このサイトの作成/運営に携わる我々は、「ニケヤ・コンスタンティノポリス」信条を守っています。また、言うまでもなく「三位一体」や「キリストの2性1人格」(こちらはカルケドン信条ですが、我々は無論、この信条をも守ります)といった基本信仰を守っています。つまり、我々は伝統的・”正統的な”キリスト教徒ですが、なぜ、3系統のいずれにも所属していないのでしょうか?答えは簡単で、2種類に分かれます。
1>3系統いずれも、ユダヤ教徒に対する差別や、国家権力との癒着、宗教戦争といった汚点を引きずってきました。ローマカトリックには異端審問や十字軍、プロテスタントにも魔女裁判や北米先住民(日本ではいまだに”アメリカ・インディアン”と平気で呼んでいるようですが)の虐殺などの歴史があります。東方正教の場合、その昔オスマントルコの支配下にあった地域の教会が組織存続のために各種の政治的策略を行使せざるを得なかったことなどは理解できますが、最近の旧ユーゴスラビアでの民族虐殺・紛争などにおいてさえあまりにもミロシャビッチの暴力的政策に手ぬるい批判しかしなかったことから分かるように、現在世界的に問題になっている民族主義と癒着し過ぎているという問題があります。こうした記述をすると、各系統からそれぞれの反論があるでしょう。しかし、こうした事実が世界の良識ある人々を幻滅させてきたという事実は否定できません。そして何よりも、こうした事実は我らの主キリストがお望みになる出来事ではありません。キリスト教組織がキリストにしたがっているとは限らないのです。 我々は、あえて独立系でいることで、今後の世界での平和的なキリスト教の在り方を模索しています。
2>エキュメニカル運動が始まってすでに久しいですが、どうも芳しい成果を挙げていません。これには構造的な問題もあると、我々は見ています。つまり、3系統に分かれている現状では、そのいずれかに所属している人物は、結局どうあがいても自分の所属する系統の立場からものを言い、行動することになります。たとえば、プロテスタントに属している人なら、結局はプロテスタントの立場を擁護するような発言をすることになります。つまり、3系統に等距離であろうとする立場が存在していないのです。我々は、等距離でありたいと願っています。我々は現在、余りにも少数で無視されて仕方のない存在です。でも、今後のキリスト教には、3系統のいずれでもなく、しかも3系統のすべてに等距離であろうとする勢力が必要なのではないでしょうか。 ついでに、我々は「組織」と呼べるようなものを形成していません。
このウエブサイトの設立と運営のために、友人同士が協力しているのです。そのため、「我々」とだけ自称しており、組織名称を挙げていないのです。恒常的組織も名前もないから、挙げようがないのです。つまり、我々は何の「宗教団体」にも所属していません。

 
     

実は、東京近郊にある「聖書主義プロテスタントを標榜するカルト」に親近性のある大学の卒業者と話していたとき、その人物は LXX のことを知りませんでした。LXX は聖書学を学ぶものなら誰でも知っている書物、しかも新約聖書の解釈においても不可欠の書物ですが、卒業者がそれを知らないという事実が、こうしたカルトの体質を物語っています。ですから、皆さまの中にも LXX をご存知ない方がいらっしゃるかもしれません。LXX はヘブライ語聖書(いわゆる「旧約聖書」)を70数名の学者が当時のギリシャ語に翻訳したもので、紀元前3世紀から前2世紀にかけて、アレキサンドリアを中心として翻訳が行われました。いくつかのバージョンがありますが、そうした詳細についてはここでは述べません。 LXX がなぜ新約聖書カノンの解釈に不可欠かというと、新約カノンを書いた人達はユダヤ教徒だった人が圧倒的に多く、また必ずしもヘブライ語旧約聖書ではなく LXX に親しんでいた人も多かったからです。つまり、新約聖書の原文のギリシャ語を解釈するさいに、そのギリシャ語によって著者はどのようなヘブライ語の概念を表そうとしたのかが、当然問題になるのですが、それを探るときにヘブライ語聖書のギリシャ語翻訳である LXX のギリシャ語と元のヘブライ語とを比較検討する作業が不可欠です。

 

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