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ここまで言えば、懸命な皆様はもうお気づきでしょう。経済制度が異なれば、「財」の扱いや機能が異なります。当然、「捧げ物」の何たるかも変化します。ですから「1/10」の規定に関しても、経済制度がまったく変質した現代の都市においては、トーラーの文言を振り回すのでなくその意図を汲んで現代の経済制度に合うように考え直すしかありません。
そもそも、農業・牧畜経済であった古代イスラエルでは、「捧げ物」も“現物支給”で行われたことは、前記の引用個所からも明らかです。
もっとも、貨幣がまったくなかったわけではありませんが。第2トーラー書(申命記)14:24以下には、捧げ物を捧げる場所から遠い地に住む人たちについては、捧げ物とする“現物”を“銀”(貨幣)に換えて主の定められる場所に行き、そこで“現物”を買って主の御前で家族とともに食べて喜ぶように定めています。(なお、ここでも捧げ物を供出する人物自身が、その捧げ物を食べることになっている点にもご注意ください。)ですが、あくまで最終的な“捧げ物”は“現物”になっています。貨幣ではありません。

するといったい、現在の都市で会員に「聖書にしたがい、収入の1/10を教会に収めよ」と説いている集団の主張は、聖書のどこに根拠があるのでしょうか?
こうした集団の大半は、「聖書」を一種の「間違いのない信仰と生活の規準」と見ています。しかし、「聖書に従って生活せよ」と言うのであれば、

1> 上記の聖書内部での食い違いは、どうするのでしょうか?
2> 聖書自体はあくまで“現物”の捧げ物を定めています。ヘブライ正典(“旧約聖書39巻”)の他の個所を調べても、“貨幣自体”を捧げ物にせよという個所を見つけられません。ところが現在の都市では、“収入”はたいてい“貨幣”ですし、こうした集団でもたいてい“貨幣”を“1/10”として集めています。
3> 結局のところ、「経済制度が変化したから、今は貨幣で1/10を集める。そして、レビ人に代わる者として牧師/教職者がそれを受ける」というのが、大半のこの種の集団から聞こえる“正当化”です。しかし、
経済制度が変化したら“捧げ物”自体を変化させて良いというのであれば、そもそも1/10という数値にはなぜ再検討を加えないのでしょうか??(現代社会では、申命記の記述内容のイスラエルには見当たらない、国家や地方自治体による課税というものがあるのですが?)
レビ人以外の生産手段を持たない人たち、外国人、父親のない子供、夫を失った女性たちなどへの配分は??
   

正常な感覚をお持ちの読者であれば、1/10に固執している団体の教職者に対して、ある言葉を投げかけたくなるはずです。「偽善者、守銭奴」
ああ、キリストの福音を語るのであれば、社会の人たちに「偽善者、守銭奴」などと思われないように注意しましょうよ。


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