皆さんなら、どう整合なさいます?私にはできません。。
トーラーを成文法体系のように捉えて、我々の生活規定と見る限りは、1/10に関する規定には体系内の自己矛盾が多くて守りようがないことにお気づきでしょう。(無論、我々「一匹のひつじ」はトーラーに対するこうした見方自体を拒否しますが。)
現在の聖書学では、要するに各時点での社会・経済状況に応じて規定が変更されてきたのだが、それらが一緒に記録されているので混乱しているように見える、と考えています。そもそも「法」とはそういうものなので、当然といえば当然ですが。
それと、経済制度自体の根本的な違いにも気づいてください、この当時のイスラエルはおそらく牧畜・農業などを基盤にし、「再配分」も行われる経済だったのでしょう。私は経済制度の専門家ではないので、もし何か間違いを言っておりましたら専門家の方々にご修正願いたいのですが、上記の引用個所も「“主”のもとへと財が集められ、レビ人、生産手段のない外国人、父親のない子供、夫を失った女性たちへと分配される」と見るなら、一種の再配分経済を示しています。
ある法規定を論じる場合、その規定の存立している状況・制度をわきまえないと、まったく意味をなさなくなる場合さえあります。たとえば、冒頭で「普通自転車」の通行に関する日本の道路交通法の問題を取り上げました。で、バイカーの皆様ならほとんど誰でもご存知のように、オランダなど一部EU諸国では主要道路には「車道」と「歩道」以外に「自転車道」が整備されています。ですから生まれてからずっとオランダにお住まいの方々にとっては、冒頭の「普通自転車」に関する日本の道路交通法についての日本語文章を、いかに上手にオランダ語に翻訳したところで、「わけが分からない」文章になってしまうはずです。法規が成立している前提として、「日本では主要道路に自転車道がなく、車道と歩道しかない、しかも路傍駐車が多い」という事実・状況を説明しない限り、決して意味のある文章にはなりません。(ついでに言っておくと、これは「翻訳」という行為に常につきまといます。「聖書翻訳」であっても、各文書の状況や意図をまず把握しない限り、決して意味は通じないのです。)
一般に、ある法規定にはその成立の前提となる状況や制度があります。それを無視してその規定を論じても、無意味です。「1/10」の場合には、その定義上“財”の扱いに関する規定ですから、当時の経済体制がまず問題になります。それを無視して単細胞に「神の言葉に1/10規定があるのだから、これに従え!」などと求めるのは、およそ一種の思考停止に他なりません。
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トーラー自体の1/10規定に食い違いが多く、具体的にどうすれば守れるのかは定かでない。 |
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トーラーも含めてすべての法規定には、前提となる状況や制度がある。それを無視すると、法は意味を成さない。 |
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