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私フランシスはどうも内燃機関というものが気に入らず、交通手段としては自転車を愛用しています。道幅に余裕がある道路であれば、車道の隅を“愛車”のプジョーですっ飛ばすのが大好きです。ところがどうも東京の道路には路傍駐車が多く、ときどき走っている自動車と接近してしまいます。そんなとき、おまわりさんが道路にいらっしゃると、「自転車は歩道を走ってください」と命じられる場合があります。
ここで、交通法規の適用としては、大変微妙な問題があります。道路交通法の第3章第13節第63条の4によると、「普通自転車は、第17条第1項の規定にかかわらず、道路標識等により通行することができるとされている歩道を通行することができる」のだそうです。ところが。。ご存知のとおり、同じ道路交通法では基本的には自転車は車道を走ることになっています。つまり、バイカーにとって道路交通法を守りたくても、どうすれば守れるのか、曖昧なのです。法体系自体のなかに微妙な食い違いがあるためです。要するに、現場の状況を見て判断し、警官がいる場合にはその指示に従えということなのでしょうが。。
ですが、歩道というのは本来、小さな子供達やベビーカーを運ぶお母さん達、足の弱いお年より、杖や車椅子といっしょに歩行している方々などをできるだけ優先し、のんびりと歩いていただきたい場所です。良心的なバイカーとしては、できるだけ歩道は走りたくないのですが・・・
これと、「1/10献金」と、何の関係があるのでしょうか?共通項は、「法体系自体のなかに微妙な食い違いがあると、その法体系をどう順守すればよいのか、具体的には分からなくなってしまう」という問題です。


ヘブライ語の“maesar”(“1/10“と翻訳されています)で例によってBibleWorks5を検索して見ました。見つかった個所のなかで、まず以下の個所を比較してみてください。翻訳はすべて、フランシス・ヒデ自身のものです。検索はヘブライ語で行っていますが、文字化けしてしまうので翻訳のみ示します。

第2トーラー書(“申命記”)12:17〜18
おまえの穀物や新しいワイン、オイル、家畜の群れの最初に生まれた子供の1/10、さらにおまえが捧げ物として誓願したもの、自由意志による捧げ物、おまえの手の捧げ物、(いずれも)おまえの(町の)ゲートのなかで食べることはできない。
そうではなく、おまえの神YHWHの選ばれる場所でおまえの神YHWHの御前で(捧げものを)食べよ、おまえの息子も、おまえの娘も、おまえの男の召使も、おまえの女の召使も、おまえの(町の)ゲートのなかにいるレビ人たちも、そしておまえの神YHWHの御前で喜べ、おまえの手の産物すべてにおいて。
同26:12
3番目の年におまえのすべての産物の1/10を(捧げもの用に)別にし終えたら、それをレビ人や外国人、父親のない子供、夫を失った女性にあげよ、おまえの(町の)ゲートのなかで彼らが食べて満腹できるように

民数記18:21

見よ、レビの子孫達に対して私はイスラエルのすべての1/10を彼らの継承財産として与える、彼らの(主と会うテントでの)働きに対する報酬として。



上記の引用個所のうち、ピンクの個所同士、空色の個所同士を見比べてください。
困ったものですねえ。先の、普通自転車の通行に関する現在の日本の道路交通法よりも、もっと守りにくいものになっています。

捧げ物は、町のゲートのなかで食べるのか、主が指定された場所で食べるのか?
1/10は、少なくてもひとまずはレビ人の所有なのか、生産手段のない外国人、父親のない子供、夫を失った女性たちのものでもあるのか?
そもそも、“捧げ物”はみんなで食べるためのものなのか、それともレビ人に進呈するのか?

皆さんなら、どう整合なさいます?私にはできません。。
トーラーを成文法体系のように捉えて、我々の生活規定と見る限りは、1/10に関する規定には体系内の自己矛盾が多くて守りようがないことにお気づきでしょう。(無論、我々「一匹のひつじ」はトーラーに対するこうした見方自体を拒否しますが。)
現在の聖書学では、要するに各時点での社会・経済状況に応じて規定が変更されてきたのだが、それらが一緒に記録されているので混乱しているように見える、と考えています。そもそも「法」とはそういうものなので、当然といえば当然ですが。
それと、経済制度自体の根本的な違いにも気づいてください、この当時のイスラエルはおそらく牧畜・農業などを基盤にし、「再配分」も行われる経済だったのでしょう。私は経済制度の専門家ではないので、もし何か間違いを言っておりましたら専門家の方々にご修正願いたいのですが、上記の引用個所も「“主”のもとへと財が集められ、レビ人、生産手段のない外国人、父親のない子供、夫を失った女性たちへと分配される」と見るなら、一種の再配分経済を示しています。


ある法規定を論じる場合、その規定の存立している状況・制度をわきまえないと、まったく意味をなさなくなる場合さえあります。たとえば、冒頭で「普通自転車」の通行に関する日本の道路交通法の問題を取り上げました。で、バイカーの皆様ならほとんど誰でもご存知のように、オランダなど一部EU諸国では主要道路には「車道」と「歩道」以外に「自転車道」が整備されています。ですから生まれてからずっとオランダにお住まいの方々にとっては、冒頭の「普通自転車」に関する日本の道路交通法についての日本語文章を、いかに上手にオランダ語に翻訳したところで、「わけが分からない」文章になってしまうはずです。法規が成立している前提として、「日本では主要道路に自転車道がなく、車道と歩道しかない、しかも路傍駐車が多い」という事実・状況を説明しない限り、決して意味のある文章にはなりません。(ついでに言っておくと、これは「翻訳」という行為に常につきまといます。「聖書翻訳」であっても、各文書の状況や意図をまず把握しない限り、決して意味は通じないのです。)
一般に、ある法規定にはその成立の前提となる状況や制度があります。それを無視してその規定を論じても、無意味です。「1/10」の場合には、その定義上“財”の扱いに関する規定ですから、当時の経済体制がまず問題になります。それを無視して単細胞に「神の言葉に1/10規定があるのだから、これに従え!」などと求めるのは、およそ一種の思考停止に他なりません。

1>
トーラー自体の1/10規定に食い違いが多く、具体的にどうすれば守れるのかは定かでない。
2>
トーラーも含めてすべての法規定には、前提となる状況や制度がある。それを無視すると、法は意味を成さない。


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